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97歳の危険運転から考える 人はなんのために生きているのか 

97歳のジジイが軽トラを危険運転させて40代の人を跳ね死なせた。

運転免許制度の是非をここで話してもしょうがない。

そんなことは好きにしたらいいのだ。

このジジイは早晩死にますよね。

あと数年したら死にます。

人は必ず死にます。

でも、こんなジジイに殺されたくないよな。

 

刑務所に入るのだろうか、それとも執行猶予されるのだろうか、老人だし仕方がないと弁護するのだろうか、死刑にしたところでこのジジイは遅かれ早かれあと数年で死ぬのだ。

 

全ての人は死ぬのだ。

 

でも死ぬ時くらい自由に死なせてもらいたい、自由に生きれていないんだから死ぬ時くらいは自由に死なせて欲しい。でも、こういうジジイのせいで自由にも死ねない。ジジイの方はきっと高齢のふりして耄碌してるふりをして何もわからないとか抜かしてんだ、そんな奴らばかりが生き延びている。

 

老人は本当に害悪である。

最近の老人は皆自分のことしか考えていない。

 

というか老人というのは元々子供に帰っていく性質があり、自分のことしか考えなくなるのは自然の摂理なのだろうか?

その害悪の傾向は特に八十代をすぎると顕著になる。

 

八十になったら姥捨山で処分されるような形にすれば良いのだ。そうしたら自由に死ねない代わりに、しっかりと八十まで生きるんじゃないか?

 

いや、どうせ八十で死ぬんだからと、もっと自暴自棄になる老害が増えるのではないか。

 

なんのために生きているのだろうか。

どうせ家を買ったって死ぬのだ、車を買ったって死ぬのだ、散財したってYouTuberで稼いだからって死ぬのは代わりないのだ。

金持ちだって貧乏だって死ぬのだ。

 

なんのために生きているのか。死は苦しみなのか、死自体は苦しみではないだろう、むしろ生きることが苦しみなのだ。そんなことはお釈迦様がとっくに悟っておられる。

 

生きることは苦しみの連続なのだ。

 

ではなぜ生きるのか、苦しみから逃れたくないのか、楽に死ねる薬があれば死にたいと思う人はたくさんいるだろう。なぜそれを作ってあげないのか。地球を守らなければならない、子どものために、環境を守らなければならない、SDGSだなんだと言っているが、それでも人は死ぬし、いずれ太陽は尽きる、どのみち地球は滅びるのだ。

 

では生きる意味はあるのかという問いには生きる意味なんてないという答えが定番である。

 

苦しまずに死ぬためになんとか上手いこと生きているだけなのだ。

 

そんな世界なので信じるに足りる神などいない。悟りを開いたお釈迦さまは神ではない。人間の真理を説いただけである。

 

97歳のジジイにはねられて43歳で死ぬような人生を運命付けられて決められているような人間などいないのだ。だから運命など信じないし神様なんていない。

 

自分を信じるだけだ。

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