昨日、家の申し込みをしてきました。
金曜日の深夜に家を出て、車でノロノロ
途中、セブンに寄りながら、ローソンにも寄りながら
ここぞとばかりに甘いものを見つけては買い、見つけては買い食いを繰り返しノロノロと走って朝方に目的地に着く。
道央圏の雪の積もり方が尋常ではなかった。
尋常ではない雪の降り方で、
雪捨て場がなくなってしまっているから
歩道に積もった雪をなげるため
車道の両脇にうずたかく積もり上がっていた。
まるで飛騨高山の風景だ
旅番組ならその風景に圧倒され
太川陽介あるいは
勝俣州和もしくは
ラッシャー板前あたりが、その雪の壁に
驚嘆の声を漏らすのであろうが
ゴリゴリの日常である
日常にこんな雪の壁はいらない
阿鼻叫喚であり雪への憎しみしかない
こんなに降らなくてもいいのに
雪はスキー場とか降るとこに降ってもらって
生活圏には降らないでもらいたいと
北海道民なら誰しも願っていることなのだが
どうも神は民の声に耳を傾けないらしい。
逆に道東だと雪がまるでなく
こどもはかまくらをつくりたい
雪合戦したい
雪だるま作りたいと嘆くのであるが
この半端ない雪の量を見ると
道東の雪のなさも幸せだったのではないかと
大人のおじさんは思うのである
しかしながら
苦しい時は互いの思いやりも芽生える
除雪排雪がままならないから
車線が確実に一つは潰れているため
譲り合わないと車は進めない
道東の田舎ではこんなことはない
グイグイ自己主張をする
高齢者・ババア・若造の多さが田舎の道では
半端ない。
改めて互いに思いやることの大切さを思い知れ
と神がお怒りになっているのだろうか
だとしたらもう少し別の方法で
思い知らせていただきたい。
何も全員に攻撃することないじゃないか。
思いやりのない人には
ピンポイントでその人の頭上にだけ
雪が降るということくらい
神ならおできになるでしょうと言いたい
やはりニーチェが言ったように
神は死んだのだろうか。
しかし神は死んではいなかった。
私にふとした幸せを与えたもうた。
金曜の深夜に出発して
土曜の昼に家の申し込みを終わらせ
そそくさと渋滞の街から家路につき
土曜の夕方にはウチに帰ってきて寝ました。
クタクタでした。
んで今日目が覚めた時に、あーもう月曜だ
もう仕事だ、また泥を飲むような仕事だ
クソつまんないなとぼやいていて
もう今月も今日で終わりだし
3月中にやらないといけないこと
たくさんあるしもう嫌だ〜って考えてたら
?…なんか、おかしくないか、今日何曜日だ?
日曜日じゃないか。
この時の幸福感たるや計り知れない。
『時』という宝石箱を与えたもうた神に
感謝するしかない。
余命幾許もない不治の病の人が
何気ない日常をかけがえのないものとして
感じるように
わたくしも、神からいただいた
2月27日というこの1日を
噛み締めながら味わい尽くしたいと
思っています。
もう一日子どもと遊べる
もう一日本が読める
もう一日写真を撮れる。
自分と向き合えるこの美しい時間を
神に感謝いたします。
…っておめえ、ただ勘違いしただけだよね…