大棍棒展
これすごいよね
なにがすごいか
記事より引用
将来やってみたいことは特段なく「生きる営み自体をやってみたらどうだろう。まずは食べることだ」と考えた。休学中に「自然農」を本などで学び、借りた畑で野菜作りを始めた。
ここがまずすごいね
やってみたいことはないが、生きる営み自体をやってみるっていう発想が豊かだ
そしてはたけをかりて始めてみるっていう行動
学校辞めたい言い訳に留学するっていう選択をとったり
行動が突飛だから好き
そして
兵庫県で1年間働いた後、2015年に奈良県宇陀市に移り住んだ。理由は「大阪からそう遠くはなく、買い物には困らず、主食とする米を作る平たんな土地もあれば、山もあるから」。
ろくに社会人として働いていないんですよね、かっこいい
とにかく行動する人なんだなと
私もキャンプで棍棒をふりまわして木を割ったりしたことがあるが
あの重い棍棒を「試し殴り」できるというスペースをキャンプ場でなくて
展示場の中に作るんだから頭がおかしいよね、素晴らしい。
棍棒にもいろんな木でできているものがあって多様性を象徴するものとも言える
人工の杉しか存在しない面白みがなくて花粉症だけが存在する林より
何がいるかわからない、湿潤な薄暗い雑木林のほうがワクワクする
そしてそのほうが棍棒が似合う。
こんぼうとはつまり冒険なのだ
我々が冒険の初めに手にする武器、それはこんぼうではなかったか。
こんぼうとぬののふく
これがあれば町を出て未知の世界に踏み出せるのではなかったのか
そのことを示唆してくれる場所でもある。
試し殴りの動画でバズって展覧会にはたくさんの人が訪れているようだ
バズるっていうことは、フォローしている人は、棍棒に現代人の渇望と希望とを見出しているからではなかろうか。
人の本来的な欲求をもとめているが毎日の生活では得ることができずさまよっている
都会の生活の情報ばかりが蔓延し自分を見失っている、情報に飽きている
死活問題の人たちがこぞって「殴る」という人間本来の生きる営みを取り戻そうと
しているのではないだろうか
試しでもいい、殴ってみたい。
だれしも一度はあるだろう、あいつを殴ってみたいという思いが。
会社の上司、嫌な客、迷惑なあおり運転、くそったれな政治家、社会の屑を
殴りたいと思う人間本来の暴力的な一面を肯定してこそ真の自己肯定感の醸成の一助となる。小賢しい心理カウンセリングなんかまっぴらごめんだ、殴れば解決するんだ。
ニーチェを引き合いに出すまでもなく既に神は死んでおり
あまりに人間的な根源の生としての「殴る」行為を
自分の根っこから引き出してみることこそ真の近代人となりうるのではないか。
棍棒はその「殴る」という人間の営みの原初的なものを象徴しており、かつ、我々が一度原初に戻りそこから近代、現代に戻り、そして未来へ進んでいくその入り口を象徴しているのだ。
いったい何が言いたいかというと、私も殴りたいということだ。
このひとが別に棍棒を広めようとか、自然保護活動とかを目的として
高尚な気持ちでスタートしたわけではないだろう
まあ、里山つくりっていうのは結構高尚なものかもわからん。
スタート地点は里山なんだろうけど、里山での遊びとして
棍棒のことを深く追求していき
そして棍棒を通して多様性のことを考えていく
何からでもSDGsのことに結び付けたがるマスゴミはゴミであるがそれは置いとく。
このひとは棍棒飛ばしなる遊びも提唱している。
いみが分からなくてとてもいい。
とにかく面白いって思ってることに力を注いでいるから好き。
好きでやってることに、面白いって食いついてくれる人がいたり
これ好きなんですって、ツイッターで投稿して
試し殴りの動画を出して、面白いって思ってもらって
面白いからみんなに見せてみたらっていう流れになって
それが棍棒展につながってるっていうのがとてもいい。
自分の好きなことを発信することが容易になって
今まででは考えられなかったことが現実にできる
だから、やりたいことをやるだけなんだけど
やっぱり、好きなんですってことを発信することが大切なんだなって
自分を見失うまえに自分の好きなことを発信してみようっていう気持ちにさせてくれる
そんな棍棒展でもあるんですよ
嫁や子供がいればその生活のために自分をほおり投げ
やりたいことを見いだせないまま毎日の生活にうずもれてしまいがちではあるが
それでもやはりやりたいことを発信するためにもがく
このことこそ未来につながっていくものなんだと勇気を得た。
みんなも人間の根源的な衝動にもとづいてやりたいことをやろうではないか